取材活動をそろそろ始めたい機運にはなってきましたが、多用している感染症を注意する必要もありますのでしばらく活動は控えています。

北の道しるべ

コロナに入る直前に曲がっていた道しるべが真っすぐに!

掘り起こし・拓本・撮影・埋め戻し・垂直修正を行い適切に完成しました。

北の道しるべ拓本

令和元年5月1日

上渕名の今昔研究会

発起会


創刊号の記録

ここからは上渕名の今昔2号編纂のための資料室です

校閲済み原稿

上渕名の古道について(東山道駅路)

 律令制による中央集権国家が成立し、全国に京と地方を連絡する幹線道路、つまり中央の文化の伝わる道が、京と幾内以外で七つに分けられていた。五幾七道と呼んでいた。上野国は東山道である。十六キロごとに駅を設けて駅長が管理を行い、駅場を置いて駅馬の乗用に充てたとある。群馬町を通る国府ルートが知られているが、近年それ以外のルート、高崎・玉村・伊勢崎・新田のコースが発見され、牛堀・矢の原ルートが七世紀後半から八世紀後半まで使用されていた。

 信濃国(長野県)碓氷坂(碓氷峠)を越えて入る松井田・坂本・高崎のコースは道幅十二メートルで、両側に側溝がある大規模な道路であった。群馬県東南部を東西に、およそ四十キロにわたり横断していた。「牛堀」と呼ばれている直線の凹地帯に着目したのは上渕名に住んでいた郷土史家の内山勝氏である。内山は直線が中川を横断する箇所に土堤が作られていること、また「牛堀」と言う地名呼称から「女堀」(前橋市上泉町地内から東村国定の中世灌漑水路遺構)のイメージに結びつけ「上渕名村北端の牛堀は伊与久村と殖連村の境界より東へ東村下谷と上渕名境界を東へ早川に落水する不成功の水路跡である」と、「佐波郡上渕名村の大銀杏と用水路遺址」として『伊勢崎史話(一九六五年)』に論じた。

 しかし内山以外に郷土史家や研究者に注目されることはなかった。ところが上武国道の建設の際、東山道が確認されたのである。水路は粕川の殖連橋下流の伊勢崎ガス会社の東側付近が水路の出発(起点)であることがうかがえる。東山道は東京リスパック北の道路で前橋・古河線を北に横切り、上渕名陸橋東側のアパートから真っ直ぐ東に通過している。一部消失しているが現在も道路として活用されており、矢ノ原を抜けて工業団地の「ポッカ」の正面あたりを東に新田へと走っている。

 

   参考資料

 ・群馬県史通史二

 ・境町史歴史第二集上

 ・境町史歴史

 ・古代のみち東山道駅路  群馬県立博物館

 ・群馬県上野国佐位群境町地図  明治十八年陸軍省

 

 

 

 

 

 

 

 

     近世の道と道しるべ

 群馬県では幹線道路の整備もあり、移動は車の利用が一般的で、一人当りの自動車保有台数は全国一位となっている。上渕名においても明治二十三年に開通した太田県道を始め、大間々県道、そして上武国道が建設され、車での移動が随分と便利になった。歩いての移動は今や健康維持のためという人が専らで、移動そのものを目的として歩くことは少なくなっている。しかし、かつて日常の移動手段は自分の足で歩く以外無かった。細道や坂道、あるいは山を切り開いた道。人や牛馬が歩いて通るだけだった頃の道は、車社会の現代にはそぐわない。ここでは、今では使われなくなってしまった道や消失してしまった道、人々の歩く生活の中で確かに存在していた道の跡を訪ね、紹介していくことにする。

 大間々・境線道路を北に向かうと東西に墓地がある。その地点の西側には地蔵があり、彼岸や盆には線香や団子を供える人々が多く見られる。この地蔵の台座には右、大まゝ(大間々)・左、あか堀(赤堀)とあるが、建てられた時期は解らない。しかし、隣りに馬頭観音があり、「明和三年(一七六六年)十一月十八日村中供養」とあることから、それに近い時代には道として利用されていたと推測できる。

左を進むと前橋・古河線を抜け東村に入る。「三室通り」と言われているが、東村上田地区に行くと道が六つに分かれており、人馬行路の要衝で古代東山道(国府ルート)が通過したであろうことから「あずま道」と言われ、「源義経」伝説もある。

道しるべは二体ある。元禄十年(一六九七年)のものと天明元年(一七八一年)のものがあり、札所観音供養も兼ねていて南は秩父・中せ(中瀬)・くまかい通(熊谷)・西国・二ノ宮・前はし(前橋)、北は赤城・湯のさわ通(湯之沢)・四国・き里う(桐生)・大間々通・坂東舟つ多・足利通、南は境を経て平つか・中瀬を経て秩父・熊谷へ向かう道を示している。西小保方・上渕名・下渕名を経て木島で「平塚・江戸通」に入って平塚に至り、熊谷を経て江戸に至るか、本庄を経てと秩父に向かったものであろう。

境の蘭学医・村上随憲は長崎のシーボルトのもとで高野長英と一緒に学んだ仲間で、天保二年(一八三一年)に境の随憲を訪ねており、また、沢渡温泉の福田宗禎らを訪ねている。記録にはないが、境から三室通りを経て六道の道に出て前橋方面に向かったのではないかと想像すると、ロマンを感じずにはいられない。

また、地蔵より南に五十メートルほどの所、西に入る道があり、「伊勢崎通り」として通行があった。前橋・古河線の中川の東に出て「岩瀬工務店」の北裏の道に入り、足利通りに出て伊勢崎へと向かったと思われる。(一部道路消失)

大正時代の道しるべとして会議所北へ百メートルほどの場所と、東へ四百メートル余りの場所には、ご即位記念として建てられた二つの道しるべがある。畑の角にあるため土の中に埋まっており、全容がはっきりしないが、大正天皇の即位の記念として建てられたようである。「大正四年(一九一五年)十一月十日建設 上渕名村」とあり、会議所北側の道しるべには右・下渕名至ル、左・東新井至ル、南・境町至ル、会議所東側の道しるべには右・東新井、左・太田新道と読み取ることができる。

下渕名の大国神社付近の旧道は新田道として利用され、旧早川端に馬頭観音があり明和二年(一七六七年)に建てられ、東・太田三里、いせ崎一里半と記されている。

天明二年(一七八二年)六月十五日、高山彦九郎は子安神社(産泰神社)を神拝し、翌十六日、伊勢崎を経て伊与久道から渕名道に入り、大国神社に神拝して太田細谷村に帰っている。当然、早川端の道しるべの前を通って行ったと思われる。現在は車で移動するため不便を感じないが、今では忘れられ利用することの無い道が、かっては重要不可欠な生活道路であったことを思わされる。

 

    上渕名にある道の呼び名

・新道    現前橋・古河線のこと明治二十三年(一八九〇年)開通、明治九年には一部開通した。

・横街往環  上渕名横街を東西に通る道路の七百メートルほどいう。集落幹線級の道路で昔は青年たちの駆けりっこの練習などにも使われていた。

・学校通り  東新井から采女小学校に通じる道路である。

・山道    新道から下渕名に通じる道で以前は林の中にあった。

・三室通り  境・大間々線から分かれて、上渕名の新町集落より東村に通じる道。

(ナカ)御道(ミドウ)   堀に沿って南下し、下渕名・上矢島を経て飯玉神社付近を通り、

      田畑のなかを通っているさみしい道である。南下すると境の町に入り、  例幣使街道と繋がる。

      国定忠治も三室通りからこの道を通り、境の町に行ったのではないかと想像される。 

 

 

   参考資料

・道祖神と道しるべ    群馬県教育委員会

・境風紀         しの木弘明

・蘭方医村上随憲     しの木弘明

・群馬風土記「子安神社道能記」を歩く

             星野正明 群馬出版センター

・群馬県史研究      群馬県史編さん委員会

・境町史第三集歴史編上

・郡村誌(明治十年)抜粋

・上渕名拡大古地図(明治十八年)

 国土地理院

・境町史談会講演資料(古道、街道から見た境町の歴史)

     俳人石原有物(ゆうぶつ)の句碑 

 境・大間々線道路の上渕名墓地の一角に糸井家の墓地があり、その墓地内に石原有物の句碑がある。句の内容は「皆人(みなひと)(めぐみ)厚起(あつき)法の(えん)とあり続けて(その)(にち)(あん)有物居士」「長沼一詠建之」とある。長沼一が誰なのかは不明である。

 「有物」の生れは上渕名の糸井家で、本名は弥七。小此木村の石原家に入り、文化年間(一八〇七年~一八一七年)に境町に出て屋号を「小西屋」と称し、商いを営んでいた。寛政年間~天保末年にかけておよそ五〇年間もの長い間、俳諧の道を歩んできた。初めは「栗庵以(りつあんじ)(きゅう)」の内弟子となり、以鳩が他界した後は江戸の小簔(こみの)(あん)(かく)(れい)に師事した。

句会では金井万古(鳥州の父)、大谷紫栢 (木島)、(こう)(しょう)庵剣二(馬見塚)、千里(せんり)(けん)一魚(いちぎょ)(米岡)が以鳩の四大家であり有物は補助方を務めた。

また、境町長光寺には芭蕉(ばしょう)句碑があるが碑の建立を待たず、天保十三年春に他界した。

碑面は芭蕉の「朝も(やや)けしき調ふ月とむめ」の句があり裏面には有物の辞世の「是ほどの花に別れて法の旅」とあり、他の二十一名の人達の追悼句が刻まれている。

有物は上渕名にも寛政八年渕名神社奉額句合(句会)の願主となり、奉額を行った。

 宝暦十一年(一七六一年)生れ~天保十三年(一八四二年)没。墓は小此木の石原家墓地にある。

 

 ◎有物句碑の「長沼一」をご存知の方、ご教示いただければ幸甚である。

 

 

     参考資料

 ・境町史第三集 歴史上

 ・境町人物伝       しの木弘明

 ・続境町人物伝      しの木弘明

 ・上毛文雅人名録     しの木弘明

 ・境いきいきアイ 写真 采女地区

 

 

 

 

     東宮殿下行啓記念碑(淵名神社社殿の右側)

 明治四十一年十一月十八・十九日両日に矢の原、新田(綿打・生品・強戸)において近衞師団の機動演習が行われ、東宮殿下(皇太子)が熊野神社(現在の淵名神社)境内において観戦され、社殿内にて御食事をされた。

その後、綿打村に移動し、沿道に十数万人の民衆が殿下の御英姿を拝したという。

十九日は生品村・宝泉村・強戸村において師団対抗演習を御閲覧し、生品神社、宝泉村脇谷の脇谷義介(新田義貞の弟)の墓に立ち寄られ、前橋の御座所・臨江閣に御一泊、翌日宮城(皇居)にお帰りになった。

 十八日の演習当日は学校職員及び児童が送迎した。釆女村郷土誌(明治四十三年)には極めて記録が少ないが、「綿打小学校誌」には細部にわたり記録されており、殿下が帰った後に御真影(写真)御賜につき御座所を設け、新田郡下十三小学校の児童が三日間に分かれて来拝(らいはい)をしたという。

 采女郷土誌では東宮殿下が社殿内において御休みになり、御食事等もなされたことから、熊野神社を忘れてはならない由緒(ゆいしょ)ある(やしろ)として永久に記念すべきと氏子が相談し、村内にある社をその筋の許可を得て翌明治四十二年六月に飯玉神社(本屋敷)、赤城神社(三筆)、神明宮(新田)、金山神社(新田)、稲荷神社(本屋敷・他、二社有り)等を合祀(ごうし)して淵名神社として一社にした。淵名神社の御神体は飯玉神社の御神体である「(くし)御木野(みけの)(みこと)」である。

 東宮殿下は明治年間、皇太子として全国を九年で十二回にわたり行啓された。その後、殿下は大正に年号が変わり天皇となられた。

 大正七年十一月に「長沼岩次郎」碑と同時期に本殿の右側に釆女村在郷軍人会第八班、上渕名住民一同、篤志賛同者(宮郷村・六本木勘三氏)を碑の裏側に刻み建立した。

また、記念碑を記したのは長沼宗雄である。

合祀の式典と思われる古写真が淵名神社社務所に大切に残っている。

 

 

     参考資料

 ・佐波郡釆女村郷土誌  明治四十三年六月

・綿打村小学校誌

・境風土記       しの木弘明

 

・境町史第二集 民俗編

カラチゴのこと

 今は鬼籍にいる、新道(県道2号線)で育った母に聞いた話である。上渕名の集会所の北は松林であった。林の周囲の林道わきにはカラチゴが沢山自生していて、母は子供のころカラチゴの花(すべ)を摘んで遊んだそうである。100歳前後の人なら、同じ体験をしていることと思われる。

 

松林と上渕名集落の発展

 上渕名の集落の発展を想像するに、会議所用地にあったお寺(長命寺)を中心として、寺の南を東西に走る往還沿いに横町・新町に旧家が家並みを形成、そこから分家が新田に家を構えた。その後、松林を隔てて太田県道沿いに、新田、新町、横町から分家移住したのが新道(県道2号線)沿いの家々であると推察される。その根拠は、姻戚関係からである。

 新道には、職人や商売をする人たちが多く住んだ。西からブリキ屋、床屋、駕籠屋、こけや(穀屋)、おもちゃ屋、金沓屋、床屋、棒屋、菓子屋、鍛冶屋、ポンプ屋等が軒を連ね、親しまれてきた。

 

 カラチゴ:日本(おきな)草のこと。(佐波、新田郡平野部の方言でカラチゴという)

 翁草は韓名は白頭翁という。花の後すべが長く伸び、縁から白く変わり、白髪を思わせる。白い毛の元には種が付いていて、風に乗って広く散らばり分布を広げる。たんぽぽと同様である。今はほとんど見かけることは無くなった。除草剤などの影響が考えられる。

 

 群馬県各地の呼び名:カワラノオバサン、チゴグサ 子供はこの花茎を取ってきて、すべで髪を結う。その時の唄。〈カワラノオバサンびんたぼ出しな びんがなければ、たぼでも出しな〉山麓の子供たちはこの草を山から採ってきたのだが、前橋市あたりでは利根河原から採ってきた。そこでカワラチゴの方言がある。(河原の稚児)カラチゴはこの詰まった方言。嬬恋村ではチンコログサという。袴草と聞いたと言う人もいる。

 この項は都丸十久一著『上州の風土と方言』(上毛新聞社刊)を参照させていただいた。

ちなみに絶滅危惧種、翁草は上信電鉄南蛇(なんじゃ)()駅の近く、神成(かんなり)山にたくさん見られる。有志が保護育成しているそうである。

                            201915

 

鈴木和彦 記                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

〈てっぴら〉という地名

 長年の疑問が解けた。

私は1942年横須賀市で生まれ、母の実家のある上渕名に育った。

 伊勢崎市日の出町、2号線の柏井建設、ガソリンスタンドのある信号の元、畑中に一軒家があった。その辺りは〈てっぴら〉という地名で呼ばれ、何故そこを〈てっぴら〉というのか、それが子供の頃からの疑問、関心事であった。

 若い時分に郷里を離れたため、一時感心は薄れたが、20代後半になって再び上渕名に戻って来た。以来、それとなく又〈てっぴら〉という地名の由来に関心を持つようになったのだが、疑問は解決されぬままだった。

 事あるごとに父母、年配者等に訪ねてきたが、誰一人教えてくれる人に巡り合えなかった。地名の由来に興味があり、先駆者の本等を読んでもそのものずばりの答えは見当たらなかった。

 言葉からの推察

 60代半ばになり、ふとしたきっかけでヒントを得た。ひらのてっぺんを示す地名ではないだろうか……?

 ひらとは、小高くなった峠の頂上付近のなべ底のような地形を意味する。新潟県十日町市松代(まつだい)にヨモギ平、薊平(あざみひら)と言う地名がある。

 てっぺんは 木のてっぺん等の言葉が示すように、一番高いところを言う。

平の一番高いところ、すなわち〈てっぴら〉の地名の由来であろう。

 地形から見た推察の妥当性の検証

 県道2号線を上渕名から市内に向かうと、〈てっぴら〉に向かってかなり上りである。〈てっぴら〉から市内に向かっては下りになっている。粕川の橋で上り下りがあるため分かりにくいが、均してみると確かに下っている。

 建物などが増え、自転車で市内に行くこともなくなり実感しにくいが、市内から見ても〈てっぴら〉が一番高い所に当たる。上渕名、伊与久、日の出町何処から見ても、然りである。

日の出町は市内から見て、最初に日の出が見られたことに由来する地名であろう。ちなみに、日の出町出身の人が2号線沿いに蕎麦屋を出店して「てっぴら庵」と名付けた。

 長年の疑問が解けたと一人ごちしてしているが、この推察が当を得ているか確かめる術がないのが残念である。読者の助言が頂ければ有難い。

201915

 

 一人ごちの後、ふと気付いた。小字の地名に〈てっぴら〉が付いていないだろうか? そう考えて、冒頭に記した一軒家を訪ねた。

 世帯主の石原様に、小字を御存知だろうかと尋ねたが、知らないとおっしゃる。しかし、近辺に「てっぺいづか」と言うのがあった、と聞いたことがあると。おそらく塚とは古墳の呼称であろう。上渕名にも水の便ある近隣に古墳群があったことが知られている。当該地の北西に神谷と言う小字が示すように湧水地があり、古くから人が住んでいたと思われる。

 登記所に行き、閉鎖登記簿謄本を取り調べてみた。期待に違わず、伊勢崎市大字八寸字(てっ)(ぺい)塚との記載があった。(現在は日の出町)

 地名は土地の状況から付けられることが多く、上渕名にも字神谷(かみや)2号線

冠婚葬祭の柿沼の南に湧水地があったことからの地名)、字水久保(昔、横町から北に林があった頃は、元長沼工務店の敷地に北から沢水が流れ、2号線を超えて柳沢 登さん宅の北を東に向かい早川に流れていた。地形は低地である事が今も分かる。おそらく水の流れる窪地に、いつの間にか水久保の字をあてたのであろう。

 〈てっぴら〉に話を戻すと、(てっ)(ぺい)塚はてっぴらとも読める。私が想像する地形からの呼称、(ひら)のてっぺんにあった塚であるから鉄平塚と言ったのか、鉄平塚があったのでてっぴらと言ったのか、それは分からない。卵が先か、ニワトリが先かの問答と同じようなものである。

2019331

 

 まだまだ私の疑問を解くには、時間と足を使わねばならない。昔の事を知っている人はかなりの年配者に限られる。自分も後進に知っていることを伝えなければならない年になってしまった。残された時間は少ない。

 その後、たまたま来訪された地域の歴史を勉強しているFさん(日乃出町出身)に、何かアドバイスがいただければと思い、この拙い文章を見ていただいた。

 Fさんからはその数日後、さっそく電話をいただいた。鉄平塚が工業団地の域内となるため取り壊されるので、そこにあった石を自宅に保管している方がいるとのこと。近隣にお住いのSさんとおっしゃるらしい。見せていただきにうかがうのを、今から楽しみにしている。

2019101

 

鈴木和彦 記

入稿原稿(原文)

高山彦九郎が、安永三年に、伊勢崎―奈良―大阪への旅行を計画したとき、あらかじめ往く先の社寺・名称・人物など調べた覚書き風の懐中帖がこの「道しるべ」である。この本を手に取ったのは去年のことであった。石の道しるべが,路傍にそれも少し傾いて立てられているのに心を惹かれた人は少なくないと思う。私が関心を持つようになったのは四年前から行っている早朝散歩していて見るとなしに調べているうちにみちしるべが私に囁きかけてくるようであった。誰もが問題にしなくなってしまっても、道しるべが雨の日風の日に、じっと佇んでいる姿を見て、人間的にも心をうたれた。道しるべを調べてみると学問的に歴史的にも私にとって新しい事実を教えてくれた。従来の古道の道筋がたどれたのもその一つである。標示が神社、仏閣、温泉、市場などが多く、さらに渡船場、関所といった地点を示すなど近世の社会史の上に貴重な資料を提供したのである。

道標の型式 

型式の変遷として第一に道しるべは、発生の最初は実用主義的なものとして発生したと考えられる。たとえば山道に入ると、木の枝を折って目じるしとした。これは現在でも狩猟や山村では行われている。「しおり」(枝切・栞)という言葉は、ここから出たといわれる。次に、立木の幹になたや鎌で、傷をつけて、目じるしにした。あるいはその削った部分に、文字を記すことによってゆく先を明示した、この立木や枝切のように、旅行者に対して直立するものから、直立型の石の道標を建てるヒントになったのである。やはり直立型が最も合理的だからであろう。道標と結んだものは月の信仰と女人信仰が結びついた。二十二夜講、二十三夜講、十八夜講、といった講によってつくられた供養塔の利用である。二十三夜とか二十二夜の観音は如意輸観音像を祭るが、これはもともと、地蔵の縁日が付きの二十四日であり、その地蔵祭りが月の二十三夜信仰と結び、地蔵と観音がひとつとなって道中の神として信仰されるようになったと思われる。その二十三夜がさらに二十二夜、二十一夜、十九夜といった月の念仏講へ変わってゆき、その供養塔に道しるべを兼ねさせたのではあるまいかと思う。

二十二夜講と道しるべ

 

 群馬県内には道しるべを、二十二夜塔、二十三夜塔に刻んだものも多い。二十二夜は二十二夜講という講を結んで、月の二十二日を祭ったという説と二十二日を集会日として集まったひとつの形態であったという説とあるが、その時、村の辻に出て月を拝んだということから、辻の分岐点に二十二夜の塚を築き、そこを神聖視した。さらにその聖地に塔を建立したのが二十二夜なり三夜なりだという。これが道しるべを併せて建立するという動機なったものであろうと思われる。上渕名周辺には二十二夜の台石に道しるべが併用されているのは二十二夜の祭る場所が辻であったことから結ばれるようになった有力な実証である。

上渕名の古道について(東山道駅路)

 律令制による中央集権国家が成立し、全国に京と地方を連絡する幹線道路が中央の文化の伝わる道が京と幾内以外、七つの道に分けられていた。五幾七道と呼んでいた。上野国は東山道である。十六キロごとに駅を設け駅長が管理を行い、駅場を置いて駅馬の乗用に充てたとある。群馬町を通る国府ルートが知られているが、近年それ以外のルート、高崎・玉村・伊勢崎・新田のコースが発見され、牛堀・矢の原ルートが七世紀後半から八世紀後半に使用されていた。

 信濃国(長野県)碓氷坂(碓氷峠)を越えて入り、松井田・坂本・高崎のコースで道幅十二メートルで道の両側に側溝がある大規模な道路であった。群馬県東南部を東西におよそ四十キロにわたり横断していた。牛堀と呼ばれている直線の凹地帯に着目したのは上渕名に住んでいた郷土史家の『内山勝氏』である。内山は直線が中川を横断する箇所に土堤が作られていること、「牛堀」と言う地名呼称から「女堀」(前橋市上泉町地内から東村国定の中世灌漑水路遺構)のイメージに結びつけ「上渕名村北端の牛堀は伊与久村と殖連村の境界より東へ東村下谷と上渕名境界を東へ早川に落水する不成功の水路跡である」と、「佐波郡上渕名村の大銀杏と用水路遺址」として「伊勢崎史話(一九六五年)」に論じた。

 しかし内山以外に郷土史家や研究者に注目されることはなかった。ところが上武国道の建設にあたり、東山道が確認され水路は粕川の殖連橋下流の伊勢崎ガス会社の東側付近が水路の出発(起点)であることが伺える。東山道は東京リスパック北の道路で前橋・古河線を北に横切り、上渕名陸橋東側のアパートから真っ直ぐに東に通過している。一部消失しているが現在も道路として活用されている。

矢ノ原を抜けて工業団地のポッカの正面あたりを東に新田に走っている。

 

   参考資料

 ・群馬県史通史二

 ・境町史歴史第二集上

 ・境町史歴史

 ・古代のみち東山道駅路  群馬県立博物館

 ・群馬県上野国佐位群境町地図  明治十八年陸軍省

 

 

 

 

 

 

 

 

     近世の道と道しるべ

 現代は上渕名においても明治二十三年に開通した太田県道を始め、大間々県道、そして上武国道と車で移動するには大変に便利となり、群馬県は全国一の一人当りの車保有台数が一位である。今は健康保持のために歩く人々が大勢います。しかし、昔は生活には勿論ですが、すべて自分の足で移動していた訳です。今はあまり使われなくなってしまった道や消失してしまっている道などがありますが、少しでも紹介できればと思います。

 大間々・境線道路を北に向かい東西に墓地がある地点の西側にお地蔵様があります。お彼岸やお盆の時は線香やお団子を上げる人々がたくさんいます。このお地蔵様の台座には右、大まゝ(大間々)・左、あか堀(赤堀)とありますが、建てられたのはいつの頃か解りません。しかし、隣りに馬頭観音があり、「明和三年(一七六六年)十一月十八日村中供養」とあります。古い時代から道として利用されていたようです。

左を進むと前橋・古河線を抜け東村に入ります。「三室通り」と言われていますが、東村上田地区に行くと道が六つにわかれており、人馬行路の要衝で古代東山道(国府ルート)が通過したであろうことから「あずま道」と言われ、「源義経」伝説もあります。

道しるべは二体あり、元禄十年(一六九七年)のものと天明元年(一七八一年)のものがあり札所観音供養も兼ねており南は秩父・中せ(中瀬)・くまかい通(熊谷)・西国・二ノ宮・前はし(前橋)、北は赤城・湯のさわ通(湯之沢)・四国・き里う(桐生)・大間々通・坂東舟つ多・足利通、南は境を経て平つか・中瀬を経て秩父・熊谷へ向かう道を示している。西小保方・上渕名・下渕名を経て木島で「平塚・江戸通」に入って平塚に至り、熊谷を経て江戸に至るか、本庄を経てと秩父に向かったものであろう。

境の蘭学医・村上随憲は長崎のシーボルトのもとで高野長英と一緒に学んだ仲間であり天保二年(一八三一年)に境の随憲を訪ねており、また、沢渡温泉の福田宗禎らを訪ねている。記録にはないが、境から三室通りを経て六道の道に出て前橋方面に向かったのではないかと思うとロマンもあります。

また、お地蔵様より南に五十メートルほどの所に西に入る道があり、「伊勢崎通り」として通行があった。前橋・古河線の中川の東に出て「岩瀬工務店」の北裏の道に入り、足利通りに出て伊勢崎へと向かったようです。(一部道路消失)

大正時代の道しるべとして会議所北へ百メートルほどの場所と、東へ四百メートル余りの場所にはご即位記念として建てられた二つの道しるべがあります。畑の角にあり土の中に埋まっており、全容がはっきりしませんが、大正天皇の即位の記念として建てられたようです。「大正四年(一九一五年)十一月十日建設 上渕名村」とあり、会議所北側の道しるべには右・下渕名至ル、左・東新井至ル、南・境町至ル、会議所東側の道しるべには右・東新井、左・太田新道と読み取ることができます。

下渕名の大国神社付近の旧道は新田道として利用され、旧早川端に馬頭観音があり明和二年(一七六七年)に建てられ、東・太田三里、いせ崎一里半と記されています。

天明二年(一七八二年)六月に高山彦九郎は子安神社(産泰神社)を十五日に神拝し翌十六日、伊勢崎を経て伊与久道から渕名道に入り、大国神社に神拝して太田細谷村に帰っています。当然、早川端の道しるべの前を通って行ったと思われます。今は車で移動するので不便を感じずにいますが、忘れられて利用することない道が重要不可欠な生活の道であったと思われます。

    上渕名にある道の呼び名

・新道    現前橋・古河線のこと明治二十三年(一八九〇年)開通、明治九年には一部開        

       通した。

・横街往環  上渕名横街を東西に通る道路の七百メートルほどいう。集落幹線級の道路で昔は青年たちの駆けりっこの練習などにも使われていた。

・学校通り  東新井から采女小学校に通じる道路である。

・山道    新道から下渕名に通じる道で以前は林の中にあった。

・三室通り  境・大間々線から分かれて、上渕名の新町集落より東村に通じる道。

(ナカ)御道(ミドウ)   堀に沿って南下し、下渕名・上矢島を経て飯玉神社付近を通り、

      田畑のなかを通っているさみしい道である。南下すると境の町に入り、  例幣使街道と繋がる。

      国定忠治も三室通りからこの道を通り、境の町に行ったのではないかと思う。 

 

 

   参考資料

・道祖神と道しるべ    群馬県教育委員会

・境風紀         しの木弘明

・蘭方医村上随憲     しの木弘明

・群馬風土記「子安神社道能記」を歩く

             星野正明 群馬出版センター

・群馬県史研究      群馬県史編さん委員会

・境町史第三集歴史編上

・郡村誌(明治十年)抜粋

・上渕名拡大古地図(明治十八年)

 国土地理院

・境町史談会講演資料(古道、街道から見た境町の歴史)

 

 

 

 

     俳人石原有物(ゆうぶつ)の句碑 

 境・大間々線道路の上渕名墓地の一角に糸井家の墓地があり、その墓地内に石原有物の句碑がある。句の内容は「皆人(みなひと)(めぐみ)厚起(あつき)法の(えん)とあり(その)(にち)(あん)有物居士」「長沼一詠建之」とあります。長沼一は誰なのかわかりません。

 「有物」の生れは上渕名の糸井家で本名は弥七。小此木村の石原家に入り、文化年間(一八〇七年~一八一七年)に境町に出て屋号を「小西屋」と称して、商いを営んでいた。寛政年間~天保末年にかけておよそ五〇年間もの長い間、俳諧の道を歩んできた。初めは「栗庵以(りつあんじ)(きゅう)」の内弟となり、以鳩が他界の後は江戸の小簔(こみの)(あん)(かく)(れい)に師事した。

句会では金井万古(鳥州の父)、大谷紫栢 (木島)(こう)(しょう)庵剣二(馬見塚)千里(せんり)(けん)一魚(いちぎょ)(米岡)が以鳩の四大家であり有物は補助方を務めた。

また、境町長光寺には芭蕉(ばしょう)句碑があるが碑の建立を待たず、天保十三年春に他界した。

碑面は芭蕉の「朝も(やや)けしき調ふ月とむめ」の句があり裏面には有物の辞世の「是ほどの花に別れて法の旅」とあり、他の二十一名の人達の追悼句が刻まれている。

「有物」は上渕名にも寛政八年渕名神社奉額句合(句会)の願主となり、奉額を行った。

有物の墓は小此木の石原家墓地にある。

宝暦十一年(一七六一年)生れ~天保十三年(一八四二年)没す。

 

 ◎有物句碑の「長沼一」をご存知の方がいましたら、ご教示いただければと思います。

 

 

     参考資料

 ・境町史第三集 歴史上

 ・境町人物伝       しの木弘明

 ・続境町人物伝      しの木弘明

 ・上毛文雅人名録     しの木弘明

 ・境いきいきアイ 写真 采女地区

 

 

 

 

     東宮殿下行啓記念碑(淵名神社社殿の右側)

 明治四十一年十一月十八・十九日両日に矢の原、新田(綿打・生品・強戸)において近衞師団の機動演習が行われ東宮殿下(皇太子)が熊野神社(現在の淵名神社)境内において観戦をされ、社殿内にて御食事をされた。

その後、綿打村に移動し、沿道に十数万人の民衆が殿下の御英姿を拝したという。

十九日は生品村・宝泉村・強戸村において師団対抗演習を御閲覧し、生品神社、宝泉村脇谷の脇谷義介(新田義貞の弟)の墓に立ち寄り、前橋の御座所・臨江閣に御一泊し、翌日宮城(皇居)に帰る。

 十八日の演習当日は学校職員及び児童が送迎した。釆女村郷土誌(明治四十三年)には極めて記録が少ないが、「綿打小学校誌」には細部にわたり記録されており、殿下が帰った後に御真影(写真)御賜につき御座所を設け、新田郡下十三小学校の児童が三日間に分かれて来拝(らいはい)をしたという。

 采女郷土誌では東宮殿下が社殿内において御休みになり、御食事等もなされたと、忘れてはならない由緒(ゆいしょ)ある(やしろ)として永久に記念すべきと氏子が相談し、村内にある社をその筋の許可を得て翌明治四十二年六月に飯玉神社(本屋敷)、赤城神社(三筆)、神明宮(新田)、金山神社(新田)、稲荷神社(本屋敷・他、二社有り)等を合祀(ごうし)して淵名神社として一社にした。淵名神社の御神体は飯玉神社の御神体である「(くし)御木(みけの)(みこと)」である。

 東宮殿下は殿下として明治年間に九年で全国を十二回にわたり行啓を行った。その後、殿下は大正に年号が変わり天皇となった。

 大正七年十一月に「長沼岩次郎」碑と同時期に本殿の右側に釆女村在郷軍人会第八班、上渕名住民一同、篤志賛同者(宮郷村・六本木勘三氏)を碑の裏側に刻み建立した。

また、記念碑を記したのは長沼宗雄である。

合祀の式典と思われる古写真が淵名神社社務所に大切に残っている。

 

 

     参考資料

 ・佐波郡釆女村郷土誌  明治四十三年六月

・綿打村小学校誌

・境風土記       しの木弘明

 

・境町史第二集 民俗編

カラチゴのこと

 今は鬼籍にいる新道(県道2号線)で育った母に聞いた話である。上渕名の集会所の北は松林であった。林の周囲の林道わきにはカラチゴが沢山自生していて、母は子供のころ、カラチゴの花(すべ?)を摘んで遊んだそうである。100歳前後の人なら、同じ体験をしていることと思われる。

松林と上渕名集落の発展

 上渕名の集落の発展を想像するに、会議所用地にあったお寺(長命寺)を中心として、寺の南を東西に走る往還沿いに横町・新町に旧家が家並みを形成、そこから分家が新田に家を構えた。その後、松林を隔てて、太田県道沿いに、新田、新町、横町から分家移住したのが新道(県道2号線)沿いの家々であると推察される。その根拠は、姻戚関係からである。

 新道には、職人や商売をする人たちが多く住んだ。西からブリキ屋、床屋、駕籠屋、こけや(穀屋)、おもちゃ屋、金沓屋、床屋、棒屋、菓子屋、鍛冶屋、ポンプ屋など、屋号として親しまれてきた。

 カラチゴ:日本(おきな)草のこと。(佐波、新田郡平野部の方言でカラチゴという)

 翁草は韓名は白頭翁という。花の後すべが長く伸び、縁から白く変わり、白髪を思わせる。白い毛の元には種が付いていて、風に乗って広く散らばり、分布を広げる。たんぽぽ同様である。今は、ほとんど見かけることは無くなった。除草剤などの影響が考えられる。

 群馬県各地の呼び名:カワラノオバサン、チゴグサ 子供はこの花茎を取ってきて、すべで髪を結う。その時の唄。<カワラノオバサンびんたぼ出しな びんがなければ、たぼでも出しな>山麓の子供たちはこの草を山から採ってきたのだが、前橋市あたりでは利根河原から採ってきた。そこでカワラチゴの方言がある。(河原の稚児)カラチゴはこの詰まった方言。嬬恋村ではチンコログサという。袴草と聞いたと言う人もいる。

 この項は都丸十久一著 上州の風土と方言(上毛新聞社刊)を参照させていただいた。

ちなみに、絶滅危惧種、翁草は上信電鉄南蛇(なんじゃ)()駅の近く、神成(かんなり)山にたくさん見られる。有志が保護育成しているそうである。

                            201915

鈴木和彦 記                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

 

 

 

 

<てっぴら>という地名

 長年の疑問が解けた。?

私は、1942年横須賀市で生まれ、母の実家のある、上渕名に育った。

 永年、伊勢崎市日の出町、2号線の柏井建設、ガソリンスタンドのある、信号の元、畑中に一軒家があった。そこを表す地名に<てっぴら>があり、何故てっぴらと言うのか子供のころからの疑問、関心事であった。

 若いころ郷里を離れ、一時感心は薄れたが、20代後半上渕名に戻って以来、それとなく、又、てっぴらという地名の由来に関心を持って、長年考えてきた。

 事あるごとに、父母、年配者等に訪ねてきたが、誰一人教えてくれる人に巡り合えなかった。地名の由来などに興味があり、先駆者の本など読んでもそのものずばりの言葉は見当たらなかった。

 言葉からの推察

 60代半ばになり、ふとしたきっかけで、ヒントを得た。ひらのてっぺん を

示す地名ではないだろうか、、、、、?

 ひらとは、小高くなった峠の頂上付近のなべ底のような地形を意味する。新潟県十日町市松代(まつだい)にヨモギ平、薊平(あざみひら)と言う地名がある。

 てっぺんは 木のてっぺんなどの言葉が示すように、一番高いところを言う。

平の一番高いところ、すなわち<てっぴら>の地名の由来であろう。

 地形から見た推察の妥当性の検証

 県道2号線を上渕名から市内に向かうと、てっぴらに 向かってかなり登りである。てっぴらから市内に向かっては下りになっている。粕川の橋で上り下りがあるので、わかりにくいが、ならしてみると下っている。

 建物などが増え、自転車で市内に行くこともなくなり実感しにくいが市内から見てもてっぴらが 一番高い所に当たる。上渕名、伊与久、日の出町何処から見ても、しかりである。

日の出町は市内から見て、最初に日の出が見られたことに由来する地名であろう。ちなみに、日の出町出身の人が2号線沿いに蕎麦屋を出店して、てっぴら庵と名付けた。

 長年の疑問が解けたと、一人ごちしてしているが、この推察が当を得ているか、確かめるすべがないのが残念であるが、読者の助言が頂ければ有難いことである。

201915

 一人ごちの後、ふと気付いた。小字の地名に <てっぴら>が付いていないだろうか?そう考えて、冒頭の一軒家を訪ねた。

 所帯主の石原様に小字を御存知だろうかと尋ねたが、知らないと言う。しかし、近辺に(てっぺいづか)と言うのがあった、と聞いたことがあると。おそらく 塚とは古墳の呼称であろう。上渕名にも水の便ある近隣に古墳群があったことが知られているように、当該地の北西に 神谷と言う小字が示すように、

湧水地があり、古くから人が住んでいたと思われる。

 登記所に行き、閉鎖登記簿謄本を取り、調べてみた。期待にたがわず、伊勢崎市大字八寸字<鉄平塚>との記載があった。(現在は日の出町、登記所データのデジタル化に伴い、閉鎖登記簿謄本を見ないと小字の表示は分からない)

 地名は、土地の状況から付けられることが多く、上渕名にも字 神谷(かみや)2号線

冠婚葬祭の柿沼の南に湧水地があったことからの地名)、字水久保(昔、横町から北に林があった頃は、元長沼工務店の敷地に北から沢水が流れ、2号線を超えて、柳沢 登さんの北を東に向かい早川に流れていた。地形は低地である事が

今も分かる。おそらく 水の流れる窪地をいつの間にか水久保の字をあてたのであろう。

 てっぴら に話を戻すと、(てっ)(ぺい)塚はてっぴらとも読める。私が想像する、地形からの呼称、(ひら)てっぺんにあった塚であるから 鉄平塚と言ったのか、鉄平塚があったので てっぴら と言ったのか分からない。卵が先か、ニワトリが先かの問答と同じようである。

 まだまだ私の疑問を解くには、時間と足を使わねばならない。昔の事を知っている人は年配者で無いとほとんどいない。自分も後進に知っていることを

伝えなければならない年になってしまった。残された時間は少ない。

2019331

 

鈴木和彦 記


長沼岩次郎碑